追想・岡本顕一郎(2)

ハッカージャパン

ハッカージャパン (略称HJ)は、1998年7月に創刊したハッキング情報誌である。
敬称は略する。
斉藤編集長の発案で(と思う)、1998年4月17日(金曜日)に venus(現:石川英治)・ しば・Vlad・マダム神風・神岸あかり(現:橋本和明)そして僕(山崎晴可)が、新宿に集まって立ち上がったムック企画だ。

後にセキュリティ情報誌という建前にはなったが、立ち上がり当時は だれもそんな おためごかしはこいていなかった。だれがどうみたって、ハッキング情報誌である。

僕は当時、自身の電話研究所というWebページとともに、石川英治氏主催の「UGTOP」に参加しており、多段プロキシ射出ツール「プロキシランチャー」や、User-Agent偽装ツール「なりきりブラウザ」を 同サイトから、フリーウェアで流していた。

その絡みで、僕は 同誌のプログラミングコーナーを、橋本和明氏のPerl記事とともに、単発の企画として書くことになった。
当時、僕と石川英治氏は 三才ブックスの「電話の本」シリーズを軸に執筆していたのだが、二人ともども 編集部とよくぶつかっていたので、ここにきて好きに書いてよい、というムック媒体が出たのは たいへんありがたかった。

ライターの多くがUGTOPから動員され、初号はあたかもUGTOPの愛蔵版のような内容だった。

ハッカージャパンは、その初号の売れ行きが好調で、2号・3号が出ることになるが、出版元の白夜書房は あくまでムック(書籍)として扱っており、雑誌コードは付与しなかった。なので、僕らも いつ消えるかわからない専門誌だけど、だからこそ刹那的なことをいくらでもやれたというのもある。ライターの多くが肉食動物のような空気を放っていた。

岡本さんとの出会い

「初めまして、六月度から白夜書房に入社した岡本と申します。
これからよろしくお願います。
ハッカージャパン21 VOL.6のライティング作業お疲れましでした。
VOL.6の打ち上げのご案内と、出欠の確認です。」

2001年8月30日に届いたこのメールが、岡本さんと僕との最初の接点である。
当時、ハッカージャパンは、新号が上がるたびに居酒屋の一室を借り切って出版パーティをするという景気のよさであった。
一方で編集部もライターも地獄のような忙しさで、編集部も増員に次ぐ増員。
4人目の編集者として入ってきたのが岡本さんだった。

岡本さんは、先任編集者である東内さんのアシスタントとして、巻末編集部企画から経験を積み始め、僕との最初の仕事は「お悩み相談室」(HJ21vol8)だ。入社翌年の2月のことである。

岡本さんの仕事ぶりは編集者として優れていた。岡本さんは当時24歳の超若手で、僕は返ってきた原稿をみて「どこを直したのかわからなかった」。
おい、大丈夫かよ、と思ってマージにかけると1000W程度の文字量に10カ所近く直しが入っていて、そのいずれもが作者がきづかないほど、前後と調和のとれた修正になっていた。
前職はシステム関係と聞いた気がしていたが、文章を「読む」センスに優れた人だという印象をこのときに持った。

この頃、僕は東京都中野区の上高田に住んでいて、高田馬場の編集部は自転車の距離だったから、原稿の直しや物撮りは、直接 編集部に赴いて自分でやることがあった。当時の岡本さんからのメールには「お昼 ごちそうさまでした」「昨日の焼き肉おいしかったです」といった、僕が先輩風を吹かせていた様子が残されている。

岡本さんとの本格的な仕事は、2002年4月・やはり巻末企画の「橋本和明vs山崎はるか お買い物バトル」である。読んでもわかるけど、橋本先生の走りっぷりに、岡本さんが相当困惑していることがわかる。橋本先生が僕の記事との親和性とか関係なく全力で書いており、そこを岡本さんが「見出し」「小見出し」でほどよく融合させているのがわかる。
この「見出し」を使った整理能力が、後年 Hagexの基盤となっていることは、もう少し後で述べる。