追想・岡本顕一郎

「読者に理解されにくいテーマですが、
“こらしめが効かない犯罪者”
について解説をしてみるのはどうでしょう?」

2009年10月10日の岡本さんからのメールである。

日本で検挙される人の約40%が再犯者という。
言い換えれば、その人たちは かつての刑罰が有効でなかったともいえる。
これがこの国の実態である。

では、なぜ有効でなかったのか。
ここで、量刑が適正でなかったのか、それとも刑がその人に合っていないのか?という考えを持つとしたら、それは「矯正」という切り口である。

だが岡本さんが読みたいものは違う。
僕らのような1980年代(第一世代)のハッキング世代は、周囲の誰かが摘発されるごとに、何がマズかったのかをよく研究し、捜査側の手口を学んでいく。
また、チンコロ(密告や捜査協力)した人物をよく観察し、適度な距離を持って、状況によってはそいつを再び利用しようとさえする。
つまり状況に対して「鼻が利く」のである。

ところが受刑するというのは、自分の適量を超えてしまい、発覚して、あまつさえ自分をつきとめられたということである。
しかもその40%が再犯であるということは、40%が前回と同じようなミスをしたということであり、ではなぜそんなミスをしたのか、というところを岡本さんは読みたいのである。
掘って出てくる結論なんて、ロクなものじゃないが、たしかにおもしろいのである。
敗者の弱点をあばくことで、読む人に優越感をもたせるからだ。
「私はそんなバカなことにはならない、だってこうやってセキュリティ技術を勉強しているのだから」
まるで、ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』で内海課長が述べた「週刊誌の作り方」のようだ。
まことにゲスいが、定期刊行物の編集者としては正しい感性である。
正論をふりかざしたところで書籍が売れなければ誰も相手にしてくれない。読者が読みたいものを提供してこそ、商業媒体の編集者といえる。

ただ。それだけに岡本さんは「底辺」の心情を理解していた。
ヤケになった人・ムキになる人・あきらめちゃった人・あきらめられない人…
そういう人たちとの接し方と支え方をよくわかっていた。
だから、あまりに危険な領域には近づかなかったし、やむを得ず そうした人たちのテリトリーに入るときは慎重さを欠かさない人物だった。

追想・岡本顕一郎

犯罪担当

ハッカージャパンでの「インターネットツール構築論」の連載が終了し、僕はレギュラーから解放されたかと思いきや、編集長からノルマだけを台割(本の設計図面)で提示されるという、すごい状況になった。だいたい毎号16~20Pだが、どだいムリな話でそれをかわすためにあらゆる方策を考えた。

そのひとつが「連載マンガ」である。
もともと僕は女性誌で原作を書いていたこともあり、三才ブックスでの同企画の成功もあって、これを斉藤編集長に提案したら あっさりOKだった。
 PCに造詣があり白夜書房の他誌でも実績のあったモリ淳史先生を作画に迎え、原作・橋本和明先生のペアで『ハッカーダイオヘッド』がはじまる。
このおかげで、僕は すーーっと、16Pの縛りから抜けることができた。
僕はこの頃メンタルダウンしていたので、とにかく休養が必要だった。

このハッカーダイオヘッドが終了して、次のマンガをどうするか、となったときに僕のほうから
「今度は実話をもとにしたマンガでいきましょう」
と提案しこれも受け入れられた。
作画はモリ淳史先生のまま、原作を僕(山崎はるか)、編集に岡本さんというトリオがこのときに成立した。

第一回はケータイ裏サイトについて都内在住の人物が本気で計画していた犯罪を、本人の許可を受けて脚色し、原作とした。
これが好評だったので、第二回は保護観察官・佐野あゆみという人物をつくりあげ、僧侶ストーカーという、これも実際にあったエピソードを描いた。

漫画解説
「駒田部長の静かな戦い」より章末のマンガ解説

この第一回で描いた「容疑者とその家族」に興味を持った女性がいた。
東京都内で学校の先生や保護者を対象に青少年のこころの問題について講演をしていた臨床心理士である。彼女は知り合いづてに、たまたま手に取ったハッカージャパンのマンガ解説記事に興味を持ち、mixiの僕のアカウントに
「講演資料として引用したい」
を許可を求めてきた。

後の僕の妻である。

第三回では「保護観察官シリーズ」として2回目の掲載が決定し、各話完結ではあるものの長編となることが決まるわけだが、僕はこの女性を考証に巻き込んで、編集部に連れて行き 打ち合わせを行った。
なぜなら彼女はスクールカウンセラーを10年近く務めており、第三回で出てくる高校生の心情について専門家の立場から意見が出せたからだ。
この経緯を聞いた岡本さんが
「はるかさん、ほんとに誰でも巻き取ってきますね」
と半ばあきれて笑っていた。

そうしてできたのが「保護観察官佐野あゆみシリーズ」 第2話「そばにいるね」だった。

保護観察官を主人公とすることで、堂々と「犯罪者」が「保護される」というシチュエーションを描けるようになった。
架空の物語であっても、犯罪者が支援されるにあたっては、現実社会のコンセンサスが必要なのである。

これを土台に、岡本さんと僕は「犯罪者の領域」に踏み込む「犯罪担当」として、判例研究や判決文の掲載(「小女子事件」)など、犯罪者が実際に見るものについて、記事にするようになった。

追想・岡本顕一郎

あー… もうすぐ出棺の時間だ。合掌する。岡本くんありがとう。

Hagex-day.info は 風刺画ではないか

書くことを続けていれば、技術的にはいつか様(さま)になるものである。
だがやはり岡本さんは、書くことよりも「見る技術」「読む技術」が卓越した人だと僕は思っている。Hagex-day.info は、その象徴であると断言する。
僕の主観をこの章では述べる。

岡本さんは編集者として技術を磨いたこともあって、本文に手を付けず「見出し」や「リード(概要文)」で、読者にきづきを与える能力に秀でている。
亡くなったからもう言っていいのだろうが、Hagex-day.info は見出し・小見出し・リードを使いこなすことで 引用コンテンツの本質を表出させることを目標としている。
逆に言えば、岡本さんは 筋道を立てて説明することは(プロとしては)苦手だし、また、そんなことを毎日やってたら疲労する。本業を持って片手間でやるには、言葉での批判・批評はコストが高すぎるのである。

Hagex-day.info が、元のコンテンツを批判や揶揄しているという意見がある。そう見えるのはわかるし、もちろんそうだろう。
では、それは間違った批判や揶揄・つまり失当だといえるのか。
本文を変えてないのに、見出しやリードだけで果たして、完全に「失当」たりえることなんて そうそうあるのだろうか。
むしろ当たっているだけに(本当のことだけに)関係者を怒らせるのだと思うし、その関係者もまた怒る自由があって、反論する自由があって、だけどそれは最初にその関係者自身が文字でこの世に意見を問うた結果なのだから、そこで生じる格闘技に第三者がやめろ・はじめるなということじゃないと思うのだ。

彼が一度でも 対象人物たちを黙らせようとしたことがあっただろうか。誰かを罵倒で緘黙させようとしたことがあっただろうか。彼は「それによって書く気になってもらうために、Hagex-day.infoに載せている」とすら僕には思える。彼はここでも編集者だったと思うのだ。

もちろん 中にはズレた見出しやリードもあるだろう。けれども岡本さんは一貫して個人の主張らしき主張は、このブログでは めったにしていないように僕には見える。
むしろ僕には、岡本さんが マッド・アマノのような、コラージュによる風刺家に見える。
そしてHagex-day.info は風刺画のように見える。
たのしみかたは それぞれだが、物書きだからか、僕にはそのように見えている。

追想・岡本顕一郎

Hagexの原点

日本では2003年ぐらいから本格的になった「ブログ」だが、この当時 ハッカージャパンでは非公式BBSという掲示板が存在し、放置されていた。
ただ誰も参加してなくて、たまに書き込まれるとすれば、記事に対する悪口だったので、
「前向きな意見が書かれていないうえに、それを放置されちゃったらライターは萎えるよ。これやってるの誰?」
と不平を述べると、編集部は「そういえば誰がやってるんだっけ?」という反応だった。
2003年4月16日である。

動いたのは岡本さんで、きっちり手続きをとって消してくれた。
「あの掲示板がライター諸氏のモチベーション低下の原因になるとは、僕も気が付いていませんでした。」
このとき僕は 岡本さんが何を優先して仕事をしているかに気がついた。
ライターが「書く気になる」ことを、原稿の内容よりも 上位においていたのである。

書く気になってもらうために、原稿を掲載する。

ライターに対する彼の編集者としての基本姿勢が、このときからハッキリと表れはじめていた。
そして同時に興味を持った。
世の中はブログブームだけど、岡本くんは 書くことはしないの?

そう聞くと、映画とか読書の日記は作ってるんですよ、ほら、と編集部のPCで そのページを見せてくれたのだけど、うわっ つまんねー!という印象だった。
記憶があいまいで確証はないが、おそらくそれは 初期のHagex-day.infoまたはその前身だと思われる。
この当時の岡本さんは、他の人の作品や文章はすっごく読めるけど、自身で文章を生み出すのはまだ苦手。そんなかんじだった。

なお当時の岡本さんもそれほど薄毛というわけでもなかった。
むしろ僕のほうが脱毛が進行していて悩んでいるぐらいだった。

追想・岡本顕一郎

ハッカージャパン

ハッカージャパン (略称HJ)は、1998年7月に創刊したハッキング情報誌である。
敬称は略する。
斉藤編集長の発案で(と思う)、1998年4月17日(金曜日)に venus(現:石川英治)・ しば・Vlad・マダム神風・神岸あかり(現:橋本和明)そして僕(山崎晴可)が、新宿に集まって立ち上がったムック企画だ。

後にセキュリティ情報誌という建前にはなったが、立ち上がり当時は だれもそんな おためごかしはこいていなかった。だれがどうみたって、ハッキング情報誌である。

僕は当時、自身の電話研究所というWebページとともに、石川英治氏主催の「UGTOP」に参加しており、多段プロキシ射出ツール「プロキシランチャー」や、User-Agent偽装ツール「なりきりブラウザ」を 同サイトから、フリーウェアで流していた。

その絡みで、僕は 同誌のプログラミングコーナーを、橋本和明氏のPerl記事とともに、単発の企画として書くことになった。
当時、僕と石川英治氏は 三才ブックスの「電話の本」シリーズを軸に執筆していたのだが、二人ともども 編集部とよくぶつかっていたので、ここにきて好きに書いてよい、というムック媒体が出たのは たいへんありがたかった。

ライターの多くがUGTOPから動員され、初号はあたかもUGTOPの愛蔵版のような内容だった。

ハッカージャパンは、その初号の売れ行きが好調で、2号・3号が出ることになるが、出版元の白夜書房は あくまでムック(書籍)として扱っており、雑誌コードは付与しなかった。なので、僕らも いつ消えるかわからない専門誌だけど、だからこそ刹那的なことをいくらでもやれたというのもある。ライターの多くが肉食動物のような空気を放っていた。

岡本さんとの出会い

「初めまして、六月度から白夜書房に入社した岡本と申します。
これからよろしくお願います。
ハッカージャパン21 VOL.6のライティング作業お疲れましでした。
VOL.6の打ち上げのご案内と、出欠の確認です。」

2001年8月30日に届いたこのメールが、岡本さんと僕との最初の接点である。
当時、ハッカージャパンは、新号が上がるたびに居酒屋の一室を借り切って出版パーティをするという景気のよさであった。
一方で編集部もライターも地獄のような忙しさで、編集部も増員に次ぐ増員。
4人目の編集者として入ってきたのが岡本さんだった。

岡本さんは、先任編集者である東内さんのアシスタントとして、巻末編集部企画から経験を積み始め、僕との最初の仕事は「お悩み相談室」(HJ21vol8)だ。入社翌年の2月のことである。

岡本さんの仕事ぶりは編集者として優れていた。岡本さんは当時24歳の超若手で、僕は返ってきた原稿をみて「どこを直したのかわからなかった」。
おい、大丈夫かよ、と思ってマージにかけると1000W程度の文字量に10カ所近く直しが入っていて、そのいずれもが作者がきづかないほど、前後と調和のとれた修正になっていた。
前職はシステム関係と聞いた気がしていたが、文章を「読む」センスに優れた人だという印象をこのときに持った。

この頃、僕は東京都中野区の上高田に住んでいて、高田馬場の編集部は自転車の距離だったから、原稿の直しや物撮りは、直接 編集部に赴いて自分でやることがあった。当時の岡本さんからのメールには「お昼 ごちそうさまでした」「昨日の焼き肉おいしかったです」といった、僕が先輩風を吹かせていた様子が残されている。

岡本さんとの本格的な仕事は、2002年4月・やはり巻末企画の「橋本和明vs山崎はるか お買い物バトル」である。読んでもわかるけど、橋本先生の走りっぷりに、岡本さんが相当困惑していることがわかる。橋本先生が僕の記事との親和性とか関係なく全力で書いており、そこを岡本さんが「見出し」「小見出し」でほどよく融合させているのがわかる。
この「見出し」を使った整理能力が、後年 Hagexの基盤となっていることは、もう少し後で述べる。

追想・岡本顕一郎

2018年6月24日夜、福岡市中央区大名の「福岡グロースネクスト」(元は校舎)で岡本顕一郎さん(41)が亡くなった。

友人がこの世を去ったことについて、未だ僕は受け止めてきれていない。

「胸は痛い」のに「悲しくならない」のである。

おそらく 僕は「悲哀の六段階」のうち、ショック の次、否定 のステージをうろうろしているのだろう。
つまり この後、怒り、抑うつがやってくると思うから、それまでに、できるだけ自分を冷静にさせる情報に接しておきたい。

にもかかわらず、この事件について、社会では ただの推測を あたかも事実のように述べる記事・言説があまりに多く、学術的な考察・あるいはそれに耐え得る資料が少なすぎることに、僕はうんざりした。
いや考えてみれば、17年間・彼と仕事をしていたのだから、社会の側が持っている情報量が、自分たちより少ないのは当然なのだ。そこに期待するのが誤りなのだ。

犯罪被害者側の気持ちとは、こういうことなのかと、あらためて認識した。
自分たちが一次資料になったのだ。
ならば、怒りが来る前に、一次資料として自身を文字変換しておこうと思う。

ここで述べることは、僕や 僕の両親・妻から見た「岡本さん」なので、N=1~4ぐらいのものである。書いてみたものの、やっぱりちがうな、と思ったり、家族から そうは思わなかったという意見が出たら随時、加筆・修正することがある。人の記憶・心象を一次資料化するわけだから、そういう不安定さ・ふぞろいさが生じることを織り込んで読んでいただきたい。

なお故人が それを言われると恥ずかしいと思うであろうことや、ご遺族が語ってほしくないと思うであろうことは、仮に公知された事実であったとしても触れない。

あと、なぜここに書くかというと、僕がいま書いてるブログがここだけだったからである。