そんな岡本さんに変化があったのは、おそらく2018年1月ごろである。
「お疲れ様です岡本です。実ははるかさんに相談があってご連絡しました。」
2018年1月31日に届いたメールはそのように始まっている。
会社が3月いっぱいで現状のメディア事業を終了する見込み。なので独立か転職を考えている。はるかさんは事業をしているので詳しいと思うから相談にのってほしい。
そういった主旨である。
現状の話を聞いた限りでは、岡本さんのやりたいメディア展開について、いまいち経営陣と認識がかみあっていない印象を受けた。
たとえば ピンク・ハッカー というページがある。
週刊ピンク・ハッカー
http://www.pinkhacker.com/
※(ドメインは本稿執筆時点で2018年10月18日ころまで有効となっている)
会社の本業への導線にぴったりの内容だと僕には見えるのだが、経営陣から停止指示が出たと岡本さんは言っていた。
だとすれば、たしかに、あまりよろしくない「状況」のようである。
とはいえ岡本さんが いきなり独立というのは、なかなか多難なように思えた。
所属企業の財務状況も それほどひっ迫しているわけではなさそうなので、いま就いているメディア事業の改善案をまずは提案した。
ただ、もし独立するなら月間200万PVへコンスタントにつながる計画を提示できれば国内の中堅ファンドと話はできる、と僕は答えた。
これについて
「企画を練りつつも、やっていけるかどうか再度考えてみます。」
と岡本さんは答えた。
この答え方を見て、独立の選択肢は彼の中で後退したもの、と僕は思っていた。
2018年4月23日、岡本さんから電話があり、じつは4月以降もメディア事業が続いており 自身もまだ所属しているという報告を受けた。
この時点では事業がどこまで続くなどといった具体的な話はなかった。
2月時点では将来を模索していた様子だったが、電話があった4月の時点では少し様子が違って、そういった先々の話はしなかった。
あれ?
と思ったが、本人が話さないのだし、ズルズルとはいえ とりあえず給料が出ている状態なら、彼にとって悪いことではないと思ったので、そこには触れなかった。
率直に述べれば、この瞬間が僕の失策だ。
実際には、岡本さんは2018年3月20日の阿佐ヶ谷ロフトのイベントに出演しており、おそらくそのときに何かをつかんだのだとおもう。
そしてこの電話があった4月23日は、翌日に豊洲で講演イベント(4月24日)、さらに次のイベント「教えて炎上先生!(5月11日)」が決まっていた。
つまり Hagexを独立のステップにすることを決めていたのだと思う。だから相談することがなかったのだろう。
このときその決意を本人の口から言わせていれば、もしかしたら、何か違った運命になったのかもしれないと思うと、まことに悔やまれる。
そもそも Hagex というキャラクターは 公開用に作られていない。
実体を世間にさらすなら、最初から専用のキャラで組み立てておく必要がある。
よく見られるのは格闘キャラで誰の挑戦でも受けて立つし、都合が悪くなれば逃げもする、という組み立てだ。読者はこの「逃げ」の部分で、格闘キャラをバカにすることができるから、実力行使を受けにくい。
だがHagexは、自身の主張が少ないだけに格闘向きとはいえず、とはいえ逃げの部分も見えにくい(他者からバカにされる要素が少ない)ため、これを実体とタグ付けすることは、実体にとって好ましいことではない。他者の生身をまともに食らうおそれがあるからだ。
にもかかわらず、このキャラを使わざるをえなかったのは、
組織人として優れていた岡本さんであっても、
個人として世に提示できる「わかりやすい実績」は Hagex だったからだ。
危険を知りながらも、ムリせざるをえなかったのがわかる。
彼が僕に相談したところで、その構造は変わらないが、それでもなんらかの助言ができたはずだ。僕はストーカー対策の活動家でもあるのだから。
2018年6月6日、おそらく月末で退職になる、という岡本さんからのメール
続いて2018年6月7日、社内問題について岡本さんから再びメールが届く。
詳細は明かせないが、問題点について積極的に正していこうとする姿勢が見受けられる。退職する企業なのに。
その後、電話が数回かかってきているが、詳細な日時はとっていない。
おそらく最後の電話は6月6~8日ごろにあった二人で共同で追っている人物についての打ち合わせだ。この内容は重要なことなので、別の機会に慎重に述べる。
含んだ言い方をして申し訳ないが、その件と、彼の事件に直接の因果関係はないと思う。
元気だった岡本さんについて、僕が述べらるのはここまでである。
2018年6月23日、僕は鎌倉で開かれたイベントに参加した。外国人も多数来られるため、忙しかった。
2018年6月24日深夜、その疲れもあって どっぷり寝ていたところを、妻に起こされた。
「岡本さんが亡くなったかもしれない、確認して!」
サッカー中継を見ていた妻が、ツイッターのタイムラインで岡本さんの名前を見つけた。
僕たちの披露宴には岡本さんからハッカージャパン名義でお祝いの品をいただいており、また共通の友人である岡田さんのツイートであることから信頼度の高い情報であったため、未明であるにもかかわらず妻が僕を叩き起こしたのだ。
2018年6月25日、ライターを中心に連絡網ができはじめ、HJ元編集長や編集者を中心に26日午後にはほぼ完成した。当初予測されたとおり博多での告別式が伝わり、便がとれた人は博多に飛んだ。
岡本さんが、自身の地元で最期を遂げたことは、ご遺族にとって悲しみを増したのか、それともやわらげたのか。
僕の実家にも連絡する。僕の両親とも驚いていた。彼は僕の実家に何度か来てたから。
2018年6月28日、岡本さんがいないことはわかっているが、東雲のご自宅前で手をあわせた後、岡本さんが気に入っていた都内の飲食店におじゃました。
ノンアルコールビールで申し訳なかったが、何かを察してか、お店の人が ていねいに注いでくれた。ふと見ると、お店の従業員の方々が(他のお客にはわからないように)整列してくれていた。思わず涙がこぼれた。
献杯。
岡本さん、よく生き抜いたよ。
本当にいろいろあったけど、たのしかったよね。
ありがとう。